8月歌舞伎座・第2部/弥次喜多は、ドタバタの新作歌舞伎

17年8月歌舞伎座(2部/「修禅寺物語」「歌舞伎座捕物帖」)

夜叉王が問いかける。「藝とは何か」

修禅寺物語」は、今回で4回目の拝見。04年7月の歌舞伎座、09年12月の国立劇場、14年07月歌舞伎座で観ている。「修禅寺物語」は、畢竟、「藝とは、なにか」をテーマにしたメッセ−ジ性の明確な芝居だ。1911(明治44)年5月、二代目左團次の主演で初演。岡本綺堂作の明治期の新歌舞伎だが、早々と大正歌舞伎のテイストが感じられる。源頼朝の長男で、非業の死を遂げた頼家の事件という史実を軸に伊豆に遺されていた「頼家の面」を元に想像力を膨らませてでき上がったフィクションである。

今回は初代板東好太郎三十七回忌/二代目板東吉弥十三回忌追善狂言として、上演された。満を持して彌十郎が主役を演じる。私が観た主な配役。夜叉王:歌六吉右衛門、中車、今回は彌十郎が初役で挑む。夜叉王の娘たちのうち、姉の桂:笑三郎(2)、芝雀、今回は猿之助。妹の楓:春猿(2)、高麗蔵、今回は、彌十郎の息子、新悟が初役で演じる。楓の夫で夜叉王の弟子・春彦:猿弥、段四郎、亀鶴、今回は巳之助が初役で演じる。頼家:門之助、錦之助、月乃助、今回は勘九郎が初役で演じる。

新歌舞伎ゆえに緞帳が上がると、開幕。舞台では、第一場「修禅寺村夜叉王住家の場」という最初の場面早々から、面作師・夜叉王(彌十郎)の姉娘桂(猿之助)と妹娘楓の夫で、夜叉王の弟子・春彦(巳之助)との間で、「職人藝とはなにか」という論争が仕組まれるなど、きちんと応酬される科白劇の中で「職人藝」というテーマが、くっきりと浮き彫りにされて来る。

自分の繪姿を元に自分の顔に似せた面を夜叉王に作れという注文を出していた源頼家勘九郎)が、修禅寺の僧(秀調)に案内されて花道から登場する。家臣の下田五郎(萬太郎)を伴っている。半年前に注文した面が、いつまで待ってもでき上がって来ないと癇癪を起こした「幽閉された権力者」・頼家が、権力尽くで、夜叉王に詰め寄る場面が、第一場の大きな山場となる。

夜叉王は、この半年間、精魂込めて頼家の面を幾つも作るが、いつも、死相とか恨みとかが、面に込められてしまい、これでは未完成で納得が行かないと困窮していたのだ。この謎が、最後で明かされるが、この時は誰も気づいていない。そういう職人藝の直感を尊重しない頼家は、いら立ちを募らせて夜叉王を斬ろうとする。その有り様を見て、職人藝を認めない(というか、言動から、職人を馬鹿にしている)、都への憧れ、上昇志向の強いギャルのような姉の桂が、無知ゆえに、勝手に夜叉王が打ち上げたばかりの面を頼家に手渡してしまう。(死相などの)懸念を表明する夜叉王を無視し、文字通り、上っ面の己の「面」が気に入った頼家は、見初めた桂をも連れて、ともども、御座所に帰って行く。

こういう芸術を判らない権力者の手に、ふがいないと思い込んでいる面が渡ってしまい、歴史に残されるならば、もう、生涯面を打たないと歎く夜叉王。「ものを見る眼」の有無が、藝にとって、最も大事だというメッセージが、この場面から伝わって来る。

第二場「修禅寺桂川辺虎溪橋の場」。御座所へ向かう桂と頼家の束の間のランデブー。亡くなった愛妾の名前「若狭の局」という名前を桂に与えると、(女にだらしがないのだろうと思われる)頼家は軽々に言う。月が雲に隠れ、辺りが暗くなる。頼家に忍び寄る軍兵たち。敵対する北条方の金窪兵衛(片岡亀蔵)が現れる。暗殺者がきたのではないかと警戒する頼家。立ち去る頼家と桂。御座所への夜討ちを命じる金窪兵衛。木陰で様子を窺っていた春彦が、通りかかった下田五郎に変事の予兆を伝えると軍兵たちが討ちかかって来る。

第三場「元の夜叉王住家の場」。やがて、頼家が、北条方の闇討ちに遭い亡くなる。父親の作った面を付けて、頼家の影武者役を務め、瀕死の怪我を負った桂が戻って来る。頼家死亡の知らせを聞いて、なぜか、歓喜する夜叉王。死相などが浮き出て、納得の行かない面しか打てなかったのは、自分の藝が拙かったのではなく、頼家の運命を示唆させた自分の藝の力の確かさのなせる業だと得心したからだ。

頼家の影武者役として頼家の衣装を付けて、襲撃の眼を欺いて逃げて来た瀕死の娘・桂の死相が深まる顔をほつれ毛を除けて、スケッチまでする夜叉王の、鬼気迫る職人魂こそ、「藝とはなにか」をテーマに掲げた岡本綺堂劇の回答がある。

藝とは、己の直感を大事にして、ひたすら、雑念を排除する。その末に沸き上がって来るものをのみをつくり出す。具象化する行為である。……、これが、正解。

夜叉王住家の庭先の姉娘が亡くなろうとしている実生活の時間の流れと住家の座敷で自分の作った頼家の面をひたすら見続けて、喜悦の表情を浮かべ続ける本望を果たした職人の時間の流れという、ふたつの時間の流れを見極めることが、この場面のポイントだろう。庭先の瀕死の娘を全く顧みず、座敷で頼家の死相を表現し切った面を見詰め、忘我の表情の夜叉王を演じる彌十郎

一方では、桂にポイントを絞ってみれば、山家育ちの若い娘が、飛躍を夢見た物語でもある。影武者の役割を果たして、実家にたどり着き、家族の前で、「私は、お局さまじゃー」と告げる。それが「本望」であったと主張する死の場面では、桂の本望と夜叉王の本望の、ふたつの確信的な意志が、くっきりと浮かび上がって来る。

私が観た4人の夜叉王。2回目に観た吉右衛門の夜叉王は、やはり充実。初めて観た歌六の時とは違って、岡本綺堂がイメージした職人像を演じきったという印象が残った。前回の中車も、それに近い。こういう役は、彼も巧い。今回の彌十郎も、家の芸の意気込みが伝わってくる。「修禅寺物語」は、メッセージ性のはっきりした劇であり、そのメッセージを体現した、それぞれの登場人物の性格描写をくっきりと演じなければならない芝居である。こういう新歌舞伎の演目は、中車も彌十郎も持ち役になって行くのではないか。

大正歌舞伎のテイストを感じさせる新歌舞伎の後、どたばた喜劇の味がする平成の新作歌舞伎を観ることになる。

弥次喜多は、ドタバタの新作歌舞伎

歌舞伎座捕物帖(こびきちょうなぞときばなし)」は、「東海道中膝栗毛」という角書きがついていて、「十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)原作より」と一応なっているが、主人公のコンビの「弥次喜多」を借用しているだけで、ドラマの中身は、全くの新作歌舞伎である。戸部和久脚本/市川猿之助脚本・演出。

新作「東海道中膝栗毛」は、染五郎の弥次郎兵衛と猿之助の喜多八を軸に去年8月歌舞伎座で上演されている。この新作「東海道中膝栗毛」は、戦後、木村錦花原作で演じられた新作「東海道中膝栗毛」とは違う。

木村錦花の新作「東海道中膝栗毛」は、12年前、05年9月の歌舞伎座で、一度だけ観たことがある。富十郎の弥次郎兵衛と吉右衛門の喜多八であった。その時の劇評を以下に再録しておこう。

木村錦花原作版「東海道中膝栗毛」から

*「東海道中膝栗毛」は、吉右衛門富十郎という藝達者が、軸になっている割には、おもしろくなかった。演出が、もうひとつなのだろう。従って、今回の劇評は、メモからスケッチ風に、以下のような部分の指摘をするだけで留めておきたい。「第四場 喜多八の部屋」は、吉右衛門の喜多八に按摩の吉之助が、「宇都屋峠」で殺された文弥のノリという趣向だが、この趣向が、あまり生きていない。幽霊だけに「生きていない」では、洒落にもならないだろう。

「第五場 箱根山中」では、雲助の場面は、「鈴ヶ森」風。さらに、「仮名手本忠臣蔵」の五段目ばりに、猪が出て来る。出演者による、だんまりがあり、逃げる弥次郎兵衛(富十郎)をしつこく追い掛ける猪。幕切れまで、追い掛ける猪と逃げる富十郎富十郎のサービス精神のなせる業(わざ)と観た。

「第六場 三島宿」歌江の演じる梓巫女細木庵妙珍は、まさに、化粧も仕草も、細木数子の真似である。無愛想な妙珍の弟子お強を京蔵が演じる。歌江の妙珍は、十三代目仁左衛門、十七代目勘三郎、六代目歌右衛門の声色を使い観客を笑わせ、嬉しがらせる。大受けだった。それほど、巧い。まるで、「俳優祭」のノリだ。

「第七場 大井川島田宿」「第八場 大井川川中の水中」では、翫雀が喜劇味を振りまく。特に、富十郎との水中かっぽれは、笑わせる。翫雀は、人足「駒代わりの関助」である。翫雀は、「第五場 箱根山中」でも、仇として付けねらわれる赤堀伊右衛門歌昇)に似た深編笠の浪人「団子鼻之丞」で、場内を笑わせていた。

時空を越えて、現代を紛れ込ませる「第九場」。かつては、「企業爆破事件」(75年)、「ロッキード事件」(76年)など、時局ものをテーマにした場面。今回は、「尾張地球博」だった。マンモスの牙など出てきたが、これが、おもしろくなかった。

この芝居は、今回のように、窮策を踏まえながらの演出では無く、野田秀樹など新しい脚本、演出でやったらおもしろくなりそう。舞台展開のテンポアップ、特に大道具の工夫は、最小限、必要だろうと、思った。→ 野田版の出し物は、第3部。

猿之助演出の「膝栗毛」

戸部和久脚本/市川猿之助脚本・演出による新作「東海道中膝栗毛」は、新しい弥次喜多もののシリーズと言えるだろう。去年の出し物はまだしも、今年の出し物は、「膝栗毛もの」を標榜しながら、ロールゲームのように、あちこちに移動する(道中をする)こともしない。定点観察もの、としか言いようがない。定点とはどこか。それは、筋書を見れば判ろうというものである。

さて、その場の構成は、以下の通り。第一場「木挽町歌舞伎座前の場」第二場「歌舞伎座舞台稽古の場」第三場「歌舞伎座伊之助楽屋の場」第四場「歌舞伎座楽屋廊下の場」第五場「歌舞伎座綾人楽屋の場」第六場「歌舞伎座座元釜桐座衛門部屋の場」第七場「歌舞伎座楽屋口の場」第八場「歌舞伎座日舞台の場」第九場「歌舞伎座捜査の場」第十場「歌舞伎座再現検証の場」第十一場「歌舞伎座暗闘の場」第十二場「どっちを取り調べまSHOWの場」第十三場「歌舞伎座綾人楽屋再現謎解きの場」第十四場「宙乗りの場」。

この場の構成にないのが、開幕の場面。定式幕が上手の幕だまりに片付けられると、舞台日は、黒白黒につなぎ合わされた道具幕が、まるで幕振り落しの演出に使われる浅葱幕のように舞台全面を覆っている。舞台が暗くなり、黒白黒の幕の白い部分に青空を背景にした富士山が浮かび上がってくる。富士山の手前には、雲海。松竹映画のオープニングの映像である。場内から、笑いが漏れる。つまり、黒白黒の道具幕の白い部分は、映画会社らしい松竹のスクリーン(銀幕)だった、というわけだ。そこに映し出される映像は、去年8月の歌舞伎座舞台を撮影した新作「東海道中膝栗毛」のダイジェスト版だった。ナレーションの声は、勘九郎か。

そして、場内が明るくなると今回の開幕は、宙乗りのゴールから。3階の8列目12番という席にいた私の耳には、宙乗りゴールの臨時の鳥屋(とや)の中から、複数の男性の低い話し声が聞こえてきた。12番の隣に11番があるが、10番から下手側は、今回は、客席として使用しない。この声はなんだろうと訝りながら本舞台やら花道やらに目をやっていると、鳥屋の話し声が止み、宙乗り用の向う揚幕が開け始められたような気配があり、宙乗りのロープが、緊迫感を示すと、傘をさした二人の役者が私の眼の前に飛び出してきた。弥次喜多こと、染五郎猿之助の二人だった。ロープで吊るされながら二人は、宙乗りならぬ、これでは、「宙降り」ではないか!宙を上って行く普段の宙乗りよりより、この宙降りの方が、重心が下になるだけに怖いのではないか。そう思って、二人の宙乗りを見下ろしているうちに、二人は花道に着地したようで、無事舞台に生還した。去年、伊勢の花火で打ち上げられた二人は歌舞伎座宙乗りで降りてきたことになる。二人を迎えるために本舞台下手から大道具棟梁(勘九郎)が登場した。弥次喜多は、歌舞伎座で大道具のアルバイトをしていたので、去年\xA4

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さて、今回の舞台は、場も多数、登場人物も多数、その上、筋は入り組んでいる。それを紹介してもあまり意味がないだろうから、初めに大雑把なあらすじを抑えておこう。それは、こうである。

歌舞伎座は、明日初日。演目は、「義経千本桜」。見せ場は、「四の切」の静御前と狐忠信。静御前は、瀬之川伊之助(巳之助)、忠信は、芳沢綾人(隼人)。江戸歌舞伎の人気を二分するライバルで、仲が悪い。歌舞伎座の舞台稽古は、初日の前々日と前日に行う。きょうは、前日なので、舞台稽古の総仕上げ。大道具のアルバイトに戻った弥次喜多の二人。梵太郎と政之助も舞台稽古の見物を許される。「四の切」では役者の科白がかみ合わない。綾人に忠信の役をおとなしく譲ったはずの伊之助は、腹に含むものがあるらしい。綾人も忠信の出の仕掛け(例の階段の仕掛けが観客席に披露されてしまうので、ここは見せ場)

が不具合で、何度もやり直す。この騒ぎの中、綾人の弟子(宗之助)が、倒れてしまう。騒ぎを聞きつけた奉行所の定廻り同心ら(片岡亀蔵、猿弥、廣太郎)が駆けつけてくる。綾人も体調がおかしくなる。伊之助は、綾人の弟子に演目を変えるよう座元に談判して欲しいと頼まれる。綾人の楽屋では、綾人の弟子は、実は、殺された可能性があり、それも綾人と間違われて殺されたのだという噂で持ちきりだ。役人は、座元を部屋に訪ねる。だが、座元(中車)は初日を前に奇妙な噂を立てないでくれと怒り出す。

贅言;この座元は、名前を「釜(かま)・桐座衛門(きりざえもん)」という。江戸時代の控え櫓の一つ「桐座」と「蟷螂(かまきり)」を引っ掛けている。知る人ぞ知る中車の昆虫好きも、もちろん入っていることだろう。座元の部屋の入口に掛かっていた暖簾には蟷螂の形を図案化した紋が入っていた。

その座元の女房(児太郎)が戻ってくる。女房は若い役者(新悟)といい仲になっている。歌舞伎座の楽屋口の外では、歌舞伎座で殺人事件が起きたと言い立てて瓦版を売っている。大道具のアルバイト・弥次喜多の二人が初日の昼の部が終わって、一休みと楽屋口に出てくる。ここは、全十四場のうち、第七場「歌舞伎座楽屋口の場」。そういえば、主役のはずのこのコンビは、影が薄くなっていたなあ。どこにいたんだろう。もう、芝居は半分も進んだ勘定になるのではないのか。

第八場「歌舞伎座日舞台の場」。綾人休演で、伊之助は、忠信役に回り、静御前は、ベテランの老女形の為三郎(竹三郎)が代役を勤めている。静御前を演じるのは、科白では50年ぶりと言っている。杖をついたままだったり、衝立に寄りかかったり、している。為三郎が泡を吹いて倒れた。欄間抜けをするはずの伊之助は首に縄を巻きつけ、首吊り状態で、天井から吊り下がってくる。慌てて、幕を閉める。休演となった歌舞伎座では、役人らによる現場検証が始まった。

この検証の場面で、欄間抜けの大道具の仕掛けが、舞台で披露されて、観客にも見せられる。検証には、さらに監察医の女医(七之助)も参加。綾人の弟子は、毒によるショックから持病を悪化させて死んだ、という。伊之助は、首吊り状態となり、首の骨を骨折して死亡した。為三郎は、肩口に針で刺されたような痕があったが死因は不明で要調査という。弥次喜多にも嫌疑がかかるが、梵太郎(金太郎)と政之助(團子)がとりあえず、割って入る。夜更けに、現場再現をする梵太郎と政之助らの調査から、怪しい人物が浮かび上がる。それは、座元の女房(児太郎)か、綾人の弟子(弘太郎)か。天照大神(笑也)が現れて、一件落着。綾人も政之助持参の家伝の秘薬で体調回復。狐忠信を演じることになる。「四の切」の幕切れ近く、綾人は花道七三で宙乗りの準備をする。弥次喜多は、荒法師の格好をして、宙乗りの準備をするグループに入っている。宙乗りの準備が整った! 吊り上げられてきたのは、何ち弥次喜多。開幕で宙乗りで降りてきたコンビは、再び宙乗りで、向こう揚幕の上、三階席に臨時に特設された宙乗り用の揚幕に吸い込まれて行く。私は、また、3回席の8列12番の席\xA4

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演技論も、役者論も、なし。その代わり、大道具論としては、おもしろかったと思う。全部で14の場面が、定式幕、回り舞台と引き道具(車の付いた大道具)、煽り(あおり。外側から内側へ、上から下へ、煽ることで大道具方は、顔を客席側に向けないで済む)などでタイミングよく、要領よく、テキパキと場面展開される。観ていて、ワクワクした。ドタバタ喜劇味の新作歌舞伎は、夏の暑さを吹き飛ばして、おもしろかった、とだけ記録しておこう。それにしても、染五郎猿之助は、本当には歌舞伎座のどこにいたのかな。大道具のアルバイトだから、裏方の裏方で見えないところをいろいろ支えていたのだろう。ご苦労さん!!